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【W杯伝説のプレーヤー①】ディエゴ・マラドーナ 元アルゼンチン代表

マラドーナアイキャッチ

こんにちは、蹴太朗です。
ワールドカップの歴史において伝説となっている、1986年メキシコ大会での”5人抜き””神の手”によるゴール。
これを記録したのが当時25歳のマラドーナであった。
”5人抜き”という華麗なゴールと”神の手”という卑劣なゴールを同じ試合で記録するあたりが、光と影のコントラストが強く、2020年に60歳という若さで病死したマラドーナの人生を象徴しているように感じる。
本記事では、そんな伝説的プレーヤーマラドーナにスポットライトを当てる。

目次

概要

1976年にアルゼンチン・リーグにおいて史上最年少でプロデビューを果たし、SSCナポリではセリエA優勝2回、UEFAカップ優勝1回に貢献した立役者となる。アルゼンチン代表においても1977年に歴代最年少(16歳)で出場、1979年にはU-20アルゼンチン代表としてFIFAワールドユース選手権を優勝、FIFAワールドカップには1982年大会から4大会連続で出場し、1986年大会ではチームを牽引して優勝に導き、大会MVPに選出された。同大会の準々決勝のイングランド戦で見せた「神の手」ゴールと「5人抜き」ドリブルは、マラドーナを象徴するプレーとして後世に語り継がれている。選手としてはペレ(ブラジル)、ヨハン・クライフ(オランダ)、フランツ・ベッケンバウアー(ドイツ)、アルフレッド・ディ・ステファノ(アルゼンチン)、ジーコ(ブラジル)などと共に20世紀のサッカー史に名を残すスター選手と評されている

出典:ウィキペディア(Wikipedia)

W杯での成績

マラドーナは、1977年に16歳で代表デビューを飾り、その後、1982年スペイン大会、1986年メキシコ大会、1990年イタリア大会、1994年アメリカ大会の4つの大会に出場している。
アルゼンチンが初優勝した1978年も実は、直前まで代表に選ばれていたが、

セサル・ルイス・メノッティ代表監督はマラドーナを「これから世界に飛躍する逸材をプレッシャーの懸かる重要な大会で潰す訳にはいかない」として最終的に大会登録22名のメンバーから外すことになった。

出典:ウィキペディア(Wikipedia)

マラドーナはこの落選を

「人生に永遠に残る、決定的な、一番大きな失望だった」

出典:ウィキペディア(Wikipedia)

と語っている。

ディエゴ・マラドーナ(Diego Armando Maradona)
  • 生年月日  1960年10月30日
  • ポジション MF/FW
  • W杯成績  1982年スペイン大会:5試合2得点(2次リーグ敗退)
          1986年メキシコ大会:7試合5得点(優勝)
          1990年イタリア大会:7試合0得点(準優勝)
          1994年アメリカ大会:2試合1得点(ベスト16)

               合計 21試合8得点


問題のゴールシーン

マラドーナはこのゴールについて、

「本当は手で触れたのだが、神の思し召しにより許された」

出典:ウィキペディア(Wikipedia)

と発言したことから、「神の手」ゴールと呼ばれるようになった。
現代であればVAR判定で確実にノーゴールとなっているところだ。時代の流れを感じる。
VAR導入によってこのような伝説が生まれなくなるのは、少し寂しい気もするのが正直な感想だ。

選手として引退→監督→その後

月24日、第26節のサンプドリア戦に出場しゴールを決めた後[47]、イタリアサッカー連盟から15か月間の出場停止処分を受けた。喧嘩別れのような形になったものの、後にSSCナポリはマラドーナの功績を称えてマラドーナの背番号10を永久欠番とした。

出典:ウィキペディア(Wikipedia)

これ以前から問題が多い選手だったが、このころから薬物などよくない噂が目立つようになってくる。

1991年には、Jリーグ発足に向けて補強を進めていた名古屋グランパスエイトへ年俸や契約金を併せ総額15億円という契約で加入がほぼ内定していた。交渉は順調に運び、残すは名古屋の親会社であるトヨタ自動車の決定を待つのみであったが、決まりかけた日本行きはマラドーナのコカイン使用疑惑によって立ち消えとなった。

出典:ウィキペディア(Wikipedia)

是非、日本で見たかったがまたしても薬物使用”疑惑”で実現しなかった。
当時まだ、W杯に出場していなかったサッカー後進国”日本”のサッカーをしていない少年であった筆者でさえ、マラドーナの名前は知っていたのだから、当時から日本国内でも人気があったことが伺える。

1994 FIFAワールドカップのドーピング違反でFIFAから再び15か月間の出場停止処分を受け、処分期間中は国内2チームの監督を務めた。
1995年10月、14年ぶりにボカ・ジュニアーズへ復帰、チームの韓国遠征において韓国代表との親善試合に出場して復帰、FKからアシストを決めた。髪にボカのシンボルカラーである金色のメッシュを入れてプレーした。1996年にはリーグ戦で5本連続してPKを失敗し、引退騒動を起こした。スイスでの薬物依存症治療を経てボカと再契約し、1997年7月には公式戦に復帰した。同年10月25日のスーペルクラシコへの出場を最後に、自身の37歳の誕生日となる10月30日に現役引退を発表した。

出典:ウィキペディア(Wikipedia)

これだけの活躍をした選手の最後としては非常に残念な引退と言わざるを得ない。
その後、監督として2010年の南アフリカ大会に出場し、ベスト8進出を決めている。
その時の映像がこちらだ。

見ていて飽きない(笑)
そんなマラドーナも晩年は病気との戦いであったようだ。

2020年11月3日に硬膜下血腫の緊急手術を受け、無事成功した。しかし退院後の11月25日、心不全のためブエノスアイレス郊外の自宅で死去した。60歳没。晩年は助けを得なければ歩くことも満足にできなかったという。

出典:ウィキペディア(Wikipedia)

また、かねてより舌戦を繰り広げてきたブラジルのペレは自身のツイッターで次のようにつぶやいている。

「何て悲しいニュースだろう。私は偉大な友人を世界はレジェンドを失った。言いたいことはまだたくさんあるが、今は神が(マラドーナの)家族に力を与えてくれますように。いつか天国で一緒にサッカーが出来たらいいね。」

出典:ウィキペディア(Wikipedia)

マラドーナに憧れ、マラドーナという存在に多大な影響を受けサッカーを始めプロになった選手がどれほどいるだろうか。
サッカーの発展に大きな影響を与え、我々の心に深く刻まれた彼のプレー、存在に敬意を表し彼が我々の中でまだ生き続けている証として、最後に彼のプレーを見て終わりにしたい。

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